受け継がれる
青学マインド

「青学らしさ」とは何か。
現在に受け継がれる「青学マインド」を、
150年の歴史をさかのぼり、
過去と現在を比較しながらご紹介します。

第1章

国際交流と英語教育

【青が来る。】

【始まり=国際交流】

アメリカの宣教師により、源流となる三つの学校が創立されました。
青山学院の創立記念日である1874年11月16日に、来日してわずか19日目のドーラ・E・スクーンメーカーによって麻布の地に「女子小学校」が建てられました。生徒7人だけの学校では、英語と聖書が教えられました。

女子小学校が教室とした薬師堂とドーラ・E・スクーンメーカー
東京英学校(銀座校舎 耕教学舎の後身)とジュリアス・ソーパー
美會神学校校舎(後に東京英学校に合同)とロバート・S・マクレイ
美會神学校で使用していた教科書
東京英学校(耕教学舎の後身)の卒業証書(1883年)
女子小学校が教室とした薬師堂とドーラ・E・スクーンメーカー
東京英学校(銀座校舎 耕教学舎の後身)とジュリアス・ソーパー
美會神学校校舎(後に東京英学校に合同)とロバート・S・マクレイ
美會神学校で使用していた教科書
東京英学校(耕教学舎の後身)の卒業証書(1883年)

【共生の意識を
もった国際交流】

初等部から高等部までの一貫した英語教育の実践をはじめ、オーストラリア、イギリス、韓国、中国、イタリアなど、伝統ある学校との相互訪問や留学プログラムを実施しています。大学では国際センターが中心となり留学生の派遣・受け入れを行い、共生の意識を備えた青山学院らしいグローバル人材を育成しています。

初等部「1年生英語の授業」
中等部「フィリピン訪問」
高等部「イタリア・レニャーニ校短期留学」
チャットルームのチャットリーダーたち
AOYAMA GAKUIN GLOBAL WEEK 2023
初等部「1年生英語の授業」
中等部「フィリピン訪問」
高等部「イタリア・レニャーニ校短期留学」
チャットルームのチャットリーダーたち
AOYAMA GAKUIN GLOBAL WEEK 2023

第2章

青山の地に

【青山開校!

【農業試験場跡地に】

1883年、アメリカの牧師ジョン・ F・ ガウチャーの寄付により、青山に3万坪の土地を購入しました。江戸時代には伊予西条藩松平家の上屋敷のあった場所で、明治時代には開拓使の第一農業試験場が置かれていました。宣教師たちは「東京における最上の場所の一つ」「健康に適した丘陵で、足場もよい」と報告書で述べています。現在の青山キャンパスの原型がつくられました。

伊予西条藩松平家の上屋敷(赤線内)
青山学院歴史紹介映像「地に播かれた三粒の種」より
第1官園(明治初期の頃)
明治末の青山学院正門前・青山通り
伊予西条藩松平家の上屋敷(赤線内)
青山学院歴史紹介映像「地に播かれた三粒の種」より
第1官園(明治初期の頃)
明治末の青山学院正門前・青山通り

【時代の最先端の地に】

渋谷と表参道に近い、交通の利便性に優れた立地を誇る青山キャンパスは、都心にありながら緑豊かなキャンパスです。幼稚園から大学までが一つのキャンパスに集っていることも珍しく、幅広い世代が共に学ぶ場所となっています。
2003年に開学した相模原キャンパスには、大学の理工学部、地球社会共生学部、コミュニティ人間科学部が置かれ、地域に開かれたキャンパスとして地元と連携した先進の教育・研究を展開しています。

青山キャンパス
航空写真(2019年10月)
相模原キャンパス
青山キャンパス
航空写真(2019年10月)
相模原キャンパス

第3章

守り続けるキリスト教教育

【学びは永遠に青い。】

【宗教教育禁止令に立ち向かい】

1899年、文部省は各種学校を除く官公私立学校における宗教教育・儀式を禁止する法律「文部省訓令第12号」を制定しました。開校当時から、キリスト教教育を行ってきた青山学院は、私立中学校として得ていた各種の特典を返上し、訓令の適用を受けない各種学校としてキリスト教主義に基づく教育を続ける道を選びます。

訓令第12号後残った中等科学生
学生による福音伝道隊
青山学院全校教職員と生徒(1911年)
訓令第12号後残った中等科学生
学生による福音伝道隊
青山学院全校教職員と生徒(1911年)

【今も神の御言葉に触れ】

青山学院にある8つのチャペルで日々行われる礼拝は、青山学院の教育において最も大切な時間です。幼稚園から大学まで、神さまへの礼拝、聖書の御言葉に触れ、日々祈る機会を大切にしています。コロナ禍においてもリモートで礼拝を行うなど、礼拝の時を守り続けています。

高等部の礼拝
初等部「クリスマス・ページェント」
本部礼拝堂(中央の十字架は、戦時中の金属供出から逃れた)
高等部の礼拝
初等部「クリスマス・ページェント」
本部礼拝堂(中央の十字架は、戦時中の金属供出から逃れた)

第4章

社会貢献 サーバント・リーダーを育てる

【ずっと青く。】

【関東大震災での奉仕活動】

1923年9月1日の関東大震災では青山学院でも校舎のほとんどが崩壊した中、残った中学部寄宿舎を負傷者の治療施設として聖路加国際病院に貸し出しました。女学院では体育堂を開放し、孤児・迷子の収容、保護も行いました。
自らも被災者であるにもかかわらず学生と教員による震災救護団を組織し、学内・学外の被災者の救援に努め、東京市の要請で社会奉仕活動も行いました。

倒壊した勝田館
震災救護団
バラック校舎での授業風景(1923年10月)
倒壊した勝田館
震災救護団
バラック校舎での授業風景(1923年10月)

【帰宅困難者の受け入れ】

2011年3月11日の東日本大震災では、帰宅困難者の方々延べ8,000人を受け入れました。その際、同じく帰宅困難者でもあった青山学院の職員が、受け入れ業務にあたりました。また、岩手県宮古市でのボランティア活動も震災直後から続いています
大学では正課として社会貢献活動を取り入れているほか、シビックエンゲージメントセンターを中心に、ボランティア活動を展開しています。

帰宅困難者を受入れた青山学院記念館
サービスラーニング(SL)の授業
岩手県宮古市でのボランティア活動の様子
帰宅困難者を受入れた青山学院記念館
サービスラーニング(SL)の授業
岩手県宮古市でのボランティア活動の様子

第5章

平和の希求

【共生社会を目指して】

【戦争と戦後の復興】

第二次世界大戦で、青山学院は試練を与えられました。1945年5月25日のアメリカ軍による山の手空襲では青山学院の7割の建物が焼失しました。
戦後、廃墟の中から、青山学院の教育を復活させるべく、多くの人々の努力で、力強く歩みだします。

疎開のため旅立つ児童たち
空襲による被害
戦後間もない頃の男子高等部の授業風景
新制大学開校(1949年)
疎開のため旅立つ児童たち
空襲による被害
戦後間もない頃の男子高等部の授業風景
新制大学開校(1949年)

【平和を実現する者を育てる】

毎日の礼拝、授業、キリスト教教育、国際交流、ボランティア活動などを通して、すべての人の尊厳が守られ、自立した人が互いに依存し合い支え合う、平和な世界を創る思考を育てるために、青山学院は歩み続けます。

高等部「平和・共生論文集」
中等部「沖縄旅行」沖縄県平和祈念資料館にて
大学「青山キリスト教学生会」
小さき灯に平和の実現の祈りを込めて
高等部「平和・共生論文集」
中等部「沖縄旅行」沖縄県平和祈念資料館にて
大学「青山キリスト教学生会」
小さき灯に平和の実現の祈りを込めて